昭和51年03月29日 朝の御理解
御理解 第45節
『世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。』
「世に、三宝様を踏むな、三宝様を踏むと目がつぶれるというが」と。三宝様というのは、ここでは、その注が入れてあります。穀物の意とあります。人間の一番大切なものという意味でしょう。そこでお道の信心を頂いて、お道の信心の一番の生命というか、大切なものというのは何だろうか。その大切なものを踏む、踏みつける様な事をする。ないがしろにする。それはいよいよ目が潰れる様な事になるでしょう。「信心する者は、肉眼をおいて心眼を開け」と。信心によることによって、心眼を開く。
昨日、竹葉会でしたが。竹葉会でえっとどなたでしたかね。「心眼と言う事は、どういう意味か」という質問があった。心眼というのは、ここでみなさんが、御祈念中などによくお知らせを頂かれます。いろんなものを見たりね、まあ心の眼で見るわけです。ですから、教祖様はその事もやはり心眼でしょうけれども。まあ私はまあ御心眼を頂いたと言うけれども、まあ「霊眼」と言った方がいいかもしれませんね。「霊眼」けれども皆んなはやはり、いろいろお知らせを頂くそれを「御心眼」とこう言う。
けれども本当の、本当の意味でという、どちらが本当か分かりませんけれども。私は一番素晴らしい心眼というのは、段々信心を頂いて、まあ言うなら何と申しましょうかね。 人間の見た目には難儀と見えておっても、心の眼をもって信心の眼をもってするとそれは、「神愛」だと困ったことだと思う事が、心眼をもってするとそれは「有り難い」とお礼を申し上げねばならない事だと。だから心の眼を開かしてもらうと言う事は、いつも喜びが頂けておると言う事になります。
自分の都合のよいことはおかげ。都合の悪いことはおかげではない。もうおかげではないというところに喜びは無い。ところが都合、自分の都合、思い通りに行くこともおかげであるから有り難いが、都合よういかん時には、もっと大きなおかげであるとすら分からして頂く。そういう信心が、心眼を開いた人だと言う事であります。「信心をしておれば、目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多い。知ったおかげより、知らぬおかげの方が多い」と仰せられる。
今までは、知らなかったおかげに気が付いていくと言う事。目には見えないけれどもおかげと、それを実感されると言う事。それが信心の目を開いた人の、いわゆる心眼を開くことであります。昨日、ここの修行生の方達が、今度学院に行きます人達が五人で、先日から御本部受験に行っておりました。そして、その方達が昨日帰って来た。男性は今朝から帰って来るわけでしょう。
でまあ、あちらの模様をいろいろ聞かせて頂きましたが、もう何日間も何日間も、ほんとにこんな時間が勿体無い、と言った様な事であったとまあ、口を揃えて言っております。まあ次々と、教祖についてとか、布教についてとかいう、まあ講義を受けてきた。「そんな教祖についてとか、布教についての、その為に一年間も勉強に行くのだから、あちらへ行ってから教えりゃええのに」と、まあ私は思ったんですけれども。
まあそれも、もうただ時間が無いからと言うて、ザーっと本を読まれたばっかりと言った様な事でもあったりした。もう第一にその一番悲しかった事は、「今、金光教の中に、神様からお知らせを頂くとか、いろんなものを見るとかと言う様な先生がおるげなが、あんた達は、そう言う事をどう思うか」と。まあ言うなら、合楽のありかたなんかはもう、特にその合楽にそれこそ、何と申しますかね。恨み骨髄こちらはどうも思ってないけれど、と言う先生が、一人講師でおられたわけです。
この頃から、ここへあの様々な手紙をよこされた先生です。たまたまその先生がその、講義にあたられた。とてもそれはまあ、けんもほろろなことだったらしいですけれども、それこそ泣き出したいような顔でその時の様子を二人で口を揃えて話しておりましたが。いろいろ今日申します心眼を。心の眼をだから、私が今申しますように、本当に神様のお心がほんとに分からして頂いて、今まで難儀と思うておったのは、却ってむしろ神愛で、お礼を申し上げねばならない様な事だと。
これをはっきり自分の心に感じれれる。「目に見えるおかげより、目に見えぬおかげのほうが多い」という、そのことが分かる。「知ったおかげより、知らぬおかげのほうが多い」と言う様な事が分かって来ると言う事は、これはほんとのいわゆる信心、「信心によって眼が開けた」と言う事になりましょう。
だからそういう意味のことならば、まあ教学一本でいかれる先生方でも分かられようけれども。「神様に、こういう御心眼にお知らせを頂いた」と言った様な事は、これは大変な間違いで、これはそのノイローゼ、まあ印だと言う様に、まあ決めつけられた。成程それはあの、ノイローゼの人は、いろんな幻影を見たりいたしますよね。また御神徳を、霊徳を受けて、神様にいろいろなお知らせを頂く人がありますよ。ここではご信者さんの中にもたくさんそういう人がおります。
それはその、ノイローゼではないのだけれども、いっしょうたくりんに「そんなのはノイローゼだ。そういう教えを受けると自分まで間違ってくるんだ」という、まあ言うならば、合楽のありかたなど、神様にお知らせを頂いて、皆さんにこうして教えを聞いてもらうと言った様な事は、きっと気違いの言っておるようなもんだと言う事なんです。私はそういうようなあの、教団に大きな主流であるところの本部で、そう言う事を言っておると言う事は、もういよいよもってお道の信心で一番大切なものを。
そんなら、三代金光様でも四神様でも、ね。教祖様でもやはり気違いだったと言う事になりますね。それは何かもうほんとに人の人心を惑わす様な事を言うて、迷惑を懸ける様な事ならけれども、それによって人がどんどん助かっておるというのであるのと、そのノイローゼの、が幻影を見るというのとは、もうはっきり違うのですけれども、それが分からないと言う事は悲しいことだとこう思う。
いよいよもって、大事なものを踏みつけておりますわけです。いよいよだから昨日も、末永先生が言ってましたが、「そう言う風に言うておる先生でもです、一応は金光様の先生にでもなるからにはです、それこそ御神前に一生懸命の御祈念をしたり、御本部へ参ったら奥城で、それこそ一心不乱で拝んでみて、ほんとにお知らせなんかが頂けるものなら頂きたい、と一応は願った人ばっかりだ」と言う訳です。私はそう思いますよ。
佐藤宿老が「お道の教師を志すからには、神の声を聞かずしてどうして御取次ぎができるか」と言っておられます。そういう言わば大切なものを、そんなものを気違い扱いする様な事は、それが金光教の一番大切なものと言う事ではないですけれども、やはり大切なものを踏みつけにするから、そうして自分も心眼の一つも開きたいと言う様な願いを持って開けないからというて、開いておる人達の事をです、気違い扱いにすると言う事は、いよいよ大切なものを粗末にしておると言う事になります。
ですから開きかけておった心眼も、開けずして結局人間。人間心ばっかり、いわゆる信心のある者もない者も変わらないような思い方、考え方しか出来なくなってしまうのです。そう言う事になったら、金光教がどう言う事になるか、と言う事でございます。私昨日、竹葉会の時にたまたまあの、清雲というお坊さんで、大変俳句のまあ先生ですかね。の俳句をいわゆる句作集より、とここに書いておりますが、ちょっと心に「いい句だなぁ」と思って、ここに書きとめさせて頂いたのを読ませて頂いてから。
「はあ、これが現在の仏教だなぁ」と思わずにはおられないような、句としては名句ですけれども、これがんなら宗教家、お坊さんの句であるか、これが現在の仏教だというふうに、まあ感じたわけですけれども。聞いて頂きましょう。「黙々と月に歩きて 添う親子」とあります。「黙々と月に歩きて 添う親子」素晴らしい句ですよね。どこかお勤めかなんかに親子でお出でられたでしょうね。そして帰りに、まあ煌煌と冴えるお月様と共に、月を見ながらお寺に帰っておられる様子でしょう。
まあ私がどっか、まあ今日は野口さんのところの宅祭りです。もうすぐそこだから私はいつも言うんです。「もう歩いて行きます」って、いやそんなわけにはいきませんから必ずお迎えにみえます。みえるからには、また送っても下さいます。これはどこへ行っても、なら宅祭りに行ってから、私が歩いて行ったというとこはいっぺんもありません。これはどう言う事でしょうか。お勤めに行かれた。そして帰りを夜になってお坊さん親子が、まあ帰っておられる。
まあ次を聞いて頂くといよいよはっきりしてきます。「たくわんを肴に 月の添う主従」とあります。お弟子さんと、和尚さんと小僧さんと、お月様をたくわんを肴に、月見をしておられるというわけです。句としては素晴らしいでしょう。もうほんとに情感がこもってる。まあ私どもも、ならここの修行生の方達と、まあ時折一緒に、御神酒を頂くようなことがありますけれども。今日は大変お御馳走があるから、ならまあお月見でも例えばするとするならです。
「さあ、なんか持ってこんか」と言うたら必ずそこには、肴にならんもんがないこと絶対ないです。たくわんどんかじってお月見せんならん様な事は絶対、まずないです。「刀自の手に なまめく 念珠 蓮見舟」とあります。「刀自」とはあの、お年よりのことをね、何々刀自とこう申しましょう。「刀自の手に なまめく念珠 蓮見舟」「早々と 涼みがてらの 霊送り」「早々と 涼みがてらの 霊送り」現在仏教でです、お盆ならお盆をする。霊祭なら、御法事なら御法事をするというてもです。
これがはあ、もうお先祖様を送るのだから」と真心を込めて送り迎えをするでしょうけれども。いわゆる「早々と 涼みがてらの 霊送り」である。これは全仏教信者に言えることであろうと思います。とても合楽あたりではそんな事は出来ませんよね。まあ他に幾らもございますけれども、言うならばもうそこに生きた力とか、生きた働き、まあ言うならば、ここお道で言うならば、御神徳を受けるとか、御神徳を現すとか。
天地の心に通うとか、天地の道理に基づいた生き方をすれば、天地が又氏子の為に限りないおかげを恵んで下さる、とかと言った様なものがもう更々現在の仏教にはない。感じられない。成程こういう坊さん達に先祖をお任せはしておられない、という思いが起きてくるのが、金光教の信心を頂いたらそういう心が起きてくると思うです。現世において例えばです、病気一つ治しきらん。難儀な問題を一つ解決しきらんくらいな、言うならば神様または仏様であるならば、もう生きた宗教とは言えないと言う事です。
先日から、みなさんにここでお話聞いて頂いた。息子をいよいよ、スパッと一人息子を勘当するという夫婦で親が参ってきた。だから私が例えば勘当すると言うたところでです、親子の縁が切れるもんじゃない。そう言う事よりも、例えば一人息子が病気でもしたと思うて。ここにいくらかの病院代がかかるけれども、助かるかもしれん。助かると言われるなら、それこそ家屋敷売ってからでも病院代を作るだろう。
まあ言うなら、「あんたんところの息子は、そういう病気しとるようなもんだから、譲っておいて金をせびに来る時に出してやりなさい」と私言うた。「そげなこと言うたら、いくら財産あったっちゃ同じこと。田畑でん売ってしまわにゃならん」と言うて私に食ってかかる様に言われました。ですからまあそれから懇々といろいろな話を聞いて頂いたんですけれども。「とにかく息子のことは私に任せなさい。
そして子供の病気は親の病気と言う位だから、よう辛抱しときゃあんた達の人相帰って鏡で見なさい。成程子供が言う事聞かんはずの顔をしとるし、いよいよ不幸せ不幸にならにゃんごたる顔しとる。第一あんたの嫁子さんの名前が悪か。雪子さんてんなんてん、これは絶対幸せになれんよ」ちゅうた。霜雪の「雪」である。だからそしたら始めてこう、ひざ伸び出すようなふうにしてから、その「雪子っちゅうのは、そげん悪かですか」ちゅうた。「もう名前ば変えたらよかでしょうか」と言う風に言うわけです。
だから名前をね、もう「ゆきこ」ば変えるわけにはいくまいけん。平仮名で優しゅう「ゆ・き・こ」と書いたらいいですよっちゅうた。言うならば、名前を変えただけでも運勢が変わる、というほどしだから心の方も変えたら、まあだ素晴らしい運勢が開けてくるよ。合楽に四・五日参ってごらんなさい。あんたもそのもうほんとに難儀をしなければならない顔がです。人相が変わってくるよ。信心さして頂いたら、合楽に参ってきたら必ず信心の芽というか、喜びの芽がでてくるんだ。
その芽を育てていくのが合楽の信心なんだ。だから花にもなりゃ実にもなっていくお徳が受けられるのだ。まあがたがた言わんでから、今日は私が息子のことは引き受けた。あんたどん帰ってからようと鏡でも見てから考えんの」と言うて私、ちょっとふうとくの申しました。それから何日ですかね、昨日一昨日ですか。丁度私が下がっておる時に、その嫁さんのお母さんになる人がお礼に出てきております。
末永先生が御取次ぎさせて頂いた。親先生があげん怒って言いよりなさるとじゃけん、こりゃおかげ頂くばいのうと、今日はお礼に出て来たばいのと思うたら、やっぱりそうじゃった。「不思議に息子が帰ってきた。そして一生懸命親父に加勢をする。こげんならもう言うことはなか」と言うて、まあお礼に出て来たというのです。生きたはたらき。私は、どうしてそういうふうに、んな断言的に言ったかというと、あの、息子に注連縄を二重に、こう神様が巻いて下さったとこを頂いたんです。
動かれんごと。言うならば、私は御心眼を頂いて、この夫婦に「とにかく自分達の心改めること考えて帰れ。息子はこっちに任しとけ」と。そのんならば勘当するのされんのと言うておったその息子がです、帰ってきただけではない、お父さんの加勢を一生懸命をする。だからまあとにかくお礼に出てこなければおられなかったから、まあお礼に出て来たわけでしょう。「そんなおかげを頂いたのだから、明日から朝の御祈念参ってきなさい」と言うてまあ、末永先生言ったそうですけれども。
人間というものは、もうおかげを頂きゃそれだけのような、ほんとの人間の幸せの道はそこから開いていかなければならんのだけれども、なかなか信心ちゃ難しいもんのごと思うたり、時間が要るの、金が要るのと言うて、なかなかできませんところに、まあ残念なことだと思いますけれどもね。生きた働きというものはそういうものなんです。そういう生きた働きをなくしてしまうというようなです。
それこそ俳句としては素晴らしい俳句だけれども、何とはなしにこれが宗教家で、宗教家のこれが実感が句に詠まれたわけであろうけれども、その情景を詠みあげた、歌いあげたその句そのものは素晴らしいけれども。生きた働きというものを更々感ずる事が出来ない様になっておる現在の仏教。これは仏教だけのことではない。金光教でも今言う様に、御心眼を頂くと言う様な人は警戒しなければいけない。「あんたどんは、それは先生、師匠と思うちゃいけん。
その人はもう気違いだ」と、例えば決めつけるような風潮が、金光教に段々濃ゆくなってきたと言う事は、いよいよ生きたものをなくしていく、これはもう前知らせのようなものだと私は思います。「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるという」三宝様ということは大事なもの。言うなら金光教の信心で大切なものと言えばいろいろあります。その大切な中に生きた働き。
生きた取次ぎ、生きた助かりというものがです、金光教からなくなったら、もう金光教は、世界の明教と言われ、言うておりますけれども、明教とは言われません。そこに生きた働きが伴うて始めてね、金光教の値打ちがあるわけでしょうけれどもね。言うならば、神様のお知らせを、それは頂く人は頂いたというてそれを踏みつける様な事を言うたり、思うたりしておっては、今後の金光教が思いやられるわけであります。
まあだ他にいろいろありましょう。大切なものが。三宝様に匹敵するような大切なものがいろいろありましょうけれども、私はこの句の中から、句そのものは、けれどもその句を詠んだ人が言うならば、立派なお寺のお坊さんである。宗教家である。これが言うならば、葬式の為にある仏教と言われるが、確かにそうだと。魂を助けるとか救うとか。人間の難儀を救う助けると言った様な働きは、もう更々なくなっておるものをそこに感じます。これは他所事ではありません。
金光教だってまだたった百年ぐらいにしかならない金光教がです、もう生きたものが、だんだん失せてきた。生きた働きがなくなるようなありかたをです、それがいかにもほんとなことのように言っておる人達のためにです。私はほんとに、金光教のこれは悲しい傾向だと思わしてもらう。今日は取り分けね、ここが私は一番大事なとこであろうと思いますから、「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが」と言われる。折角心の眼が開け出してきたね。
その開け出した眼がね、それをそまつにする様な事になったら、開きかけた眼が潰れてしもうて、また信心の無い者と同じ、肉眼で見る。事柄を全ての事を肉眼で見たり感じたり、それを言うたりするようになったら、信心頂いて生きた信心の頂いておる者の値打ちがない、と言う事になりますね。今日また、男子志願の生が三人帰ってくるから、また本部のいろんな模様が、もっと詳しく分かることでしょう。その分かる一言一言が、もう私にとっては何とも言いようがない。
成程先日殿様行列の前に、あの高橋源太郎演ずる所の、あの水戸黄門の中に出てくるあれが「この道は間違ってる。向こうの反対の方へ行かなきゃいけない」と言うておってもです、却って「町人の分際で何を言うか」と言うて追いかけられて折る様な情景。まあ言うならば高橋源太郎演ずる所のそれを、まあ私だと。ほんとの事言っておるけれども、こっちはまだ力がないからそれを、右を左にする事が出来ない。
回れ右をさせることができない。いよいよここに水戸黄門の出現が待たれると。もうただそれを願うより他にはない。大きな神様のほんとのそうした、それこそ一喝。一言でです、それを回り右させれれるような働き、水戸黄門の出現を待つより他にはない、というようなことを聞いて頂いたが、今日の御理解に続いてそのことを思うて、ほんとに教団の、いよいよ発展。
いよいよの中にたくさんの人の御取次ぎが成就しておる。「御取次成就信心生活運動」がほんとの意味においてなされるような、その日々の早からん事を祈り願うという信心。ただ、昨日の御理解から言うとね、自分の事だけを祈るという、願うという。それは信心であっても「信心の真」ではないと頂いた。私どもが今こそ、教団の事を本気で願わせて頂く。それが信心の真だと昨日頂いた。
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